人工知能(AI)は、もはやコンピュータサイエンスの枠を越え、実社会、それもビジネスの最前線での本格的な活用が始まっている。なかでも、企業の競争力向上や働き方改革という、組織マネジメントの根幹にAIを活用する企業が増えつつある。
日立が開発した名刺型のウェラブルセンサー。誰と誰が、いつ、何分間対面したかという「対面情報」、行動しているか静止しているかといった「身体情報」、さらにはビーコンとの連動でどこに滞在しているかという「場所の情報」を計測できる。
撮影:今村拓馬
名札型のセンサーを身につけた従業員から日々集積する行動データを元に、 組織の「活性度」や従業員同士の関係性を計測・可視化する事業が注目を集めている。これは日立製作所(東京都千代田区)のAIを活用した顧客サービスであり、組織の活性化や生産性向上を支援する。研究開発グループ技師長の矢野和男氏によれば、「供給が追いつかないぐらい注文をいただいている状況」なのだという。
この4月からは、みずほ銀行でも、営業と企画2部門でこのテクノロジーを使った実証実験が始まったところだ。営業部門ではセールス力向上を、企画部門では業務効率化を目指している。三菱東京UFJ銀行、JALをはじめ、すでに導入したところ、あるいは今後導入する企業も含め、2年間で20社以上から注文が相次いだ。
「ニーズは製造業、サービス業、金融業、運送業など、『ほとんど全方位』の業種にまたがる。しかも、営業、企画……とあらゆる部門から引き合いがある」(矢野氏)
動きの“データ”で測る働き手の幸福度
AI研究の第1人者の矢野和男氏。「ビッグデータ」という言葉もない時代からデータ研究に着手し、それらを自動で分析するAIも開発。
撮影:今村拓馬
このサービスで用いる「Hitachi AI Technology/H」は、自ら学習し判断する、いわゆる多目的人工知能だ。とはいえ、ビジネスの売り上げ増や業務の効率化といった顧客のアウトカム(成果)に結びつかなければ、AIを使ったサービスとうたったところで、ビジネスにはならない。実は日立が強みとしているのは、AIが分析の手がかりにしている「ものさし」のテクノロジーなのだ。
ブレークスルーの原点は、研究に「幸福(ハピネス)」という概念を持ちこみ、幸福感を測定することを目指したところにある。矢野氏らの研究開発グループは、まず、人の身体運動のデータから特徴的なパターンを割り出した。同時に、人が充実感を感じていたり、逆に職場のムードが悪くなったりした時にどのような反応を示すかを大量に分析するため、感情にまつわるアンケートも行った。そのアンケートを組織ごとに平均化することにより、その組織が幸せかどうかを数値化した。
研究からわかったのは、センサーで測定した人の身体の動きと、人の感情とに関連性があり、幸福は「無意識の体の動きのパターン」に現れるということ。そこから、組織の「幸福感の度合い(ハピネス度)」を数値化して「見える化」する仕組みを開発することに成功した。
ハピネス度が高い日に上がる受注率
さらには、幸福な組織ほど生産性も高くなることを発見した。
それは、あるコールセンターでの実証実験の時だった。「集団全体のハピネス度」が高い日はそうでない日に比べて受注率が34%も高かった。それだけではない。組織全体の受注率と最も相関があったのは、休憩所での会話が弾む「活発度」だということもわかったのだ。
「よく『幸福は人それぞれ』とは言うけれど、新しい視点で紐解くと、人の幸福度って、測れるんです」
矢野氏は自信たっぷりにこう語った。
日立の営業部隊600人を対象にした昨年の実証実験をもとに、実際の使い方を見てみよう。従業員は、首からかけられる名刺大のウェアラブルセンサーを身につける。これで従業員の動きを常時計測する。メールをしている時、誰かと会話している時、歩行時などと行動パターンによって加速度の波形は識別できる。
ウェラブルセンサーに組み込まれた「加速度センサー」の波形は、歩行時とメールを打っている時では異なる。AIはこうした各種の行動データと「ハピネス度」を結びつけ分析を行う。
提供:日立製作所
それに加え、スマートフォンの専用アプリを通して、従業員が誰と話しているかが分単位で把握できる仕組みも取り入れた。
このようにさまざまに得られる各種のデータから法則性を見い出し、「ハピネス度」との関連性を分析するのがAIの役目だ。職場での会話や時間の使い方など、職場での幸福感を高めるための方策をAIがフィードバックする。
「会議を午前中に始めた方がいい」 「○○さんとしゃべったほうがいい」 などと、アドバイスは端的かつ具体的なものだ。こんな風にAIが職場の働き方を診断すると、従来の発想にはない改善策を提案してくることがあるという。
こうしたAIからの働きかけが功を奏したのか、「普段あまり話さなかった人が立ち寄って話しかけてきた」「以前よりコミュニケーションが明らかに増えた」と話す従業員もいた。
半導体事業からの撤退が契機に
「ビッグデータやAIの講演を何百本もしてきましたが、もともと私はハードウェアをつくっていた人間なんです」
と矢野氏は笑う。
日立は2003年に半導体の事業を打ち切った。20年間も従事してきた半導体の研究を辞め、キャリアをリセットして再出発することになった矢野氏が、ある種「逆張り」で始めたのが、現在の事業につながる「データ」の研究だ。まだ「ビッグデータ」なる言葉も浸透していなかった時代である。世の中から集積するデータには、人間のデータも重要なファクターになるだろうと仲間と議論し合った。
そこで、人間のデータを大量に測れる計測器として、ウェアラブルセンサーのプロトタイプを開発。さまざまな行動情報を解析するプロジェクトを発足させた。リーダーを務めていた矢野氏自らが、身体の運動を24時間取得する最初の実験台になった。
毎日のようにデータを眺め、分析するうちに、矢野氏はふと考えた。
「このデータの中に、人の“幸せ”を示すパターンが潜んでいるのではないか」
こんな発想から、矢野氏はアメリカのハピネス研究の専門家を訪ね、共同研究を行った。幸福という、従来では測りようがないと考えられてきたことがひとたび計測できるとなると、組織や業務の成果に結びつくような法則性が次々に見つかっていった。
センサーで得られる情報から「ハピネス」が定量化できることを突き止め、2015年2月に新聞で発表、ハーバードビジネスレビュー誌にも論文を書いた。日立では2015年からこのテクノロジーを事業化し、冒頭で述べた支援サービスの提供を開始した。
変化・多様性・複雑性にダイナミックに対応
幸福度に関するアンケートの結果と組織内での行動の多様性とがぴったり一致していた。相関係数は0.94と極めて高い。
提供:日立製作所
幸福度に目をつけてから事業化までに10年近い歳月がかかったが、ハピネスの指標や、業務とハピネスとの相関を人工知能が自動で見出すシステムなど、基本的な特許を多数取得した。周辺技術も含め、これまでに出願した特許は350件にものぼる。
「困難に早く直面して、逆によかったと思っています。『これからはデータの時代だ』と軸足を変え、いやいや、データを取るだけじゃダメで、分析するには『目的』にあたる数値が必要だと世の中より早く気づくことができた。会社の方針で方向転換を余儀なくされた当時の自分としては、残念としか思えなかったけれど、後から見ると、こんなありがたかったことはない。会社には逆に感謝しないといけないぐらいです」
技術を導入した顧客の声から、雇用が揺らぐ日本の職場の切実感を感じるという。
「大きくは、国として働き方改革が走っている。単に時短する、残業時間を減らすといった取り組みだけでは足りなくて、そこを超えたところでいろいろな取り組みをしていきたいというニーズが強くあります」
ハピネスのテクノロジーは、経営層からの引き合いも多い。
「日本がこれだけピンチになった原因は、人を囲い込んで活躍の機会を奪うなど、人材の流動性が失われていたことにあると思う。それに、従来の経営理論は、Aの時はB、Cの時はDという分類学がベースだったが、これだけのスピードで世の中が変化し、予測が困難な時代には、それだけでは対応できない。人材も流動化し、働き方も組織のあり方も大きく変えていかなければならない時代。だからこそ、変化や多様性、複雑性にダイナミックに対応するAIの技術に期待が集まっているのだと感じます」
1人1人にAIが味方につく時代
今、社内や社外に組織をオープンにし、常に人が動いても、いつも組織が活性化しているような柔軟な人材活用、組織マネジメントが求められている。かつて、退路を断たれたことで生まれ変わることができた自分の姿を重ね、働き方を抜本から変えていく時代のうねりを、矢野氏はポジティブに捉えている。もはや一つの企業に一つのAIという単位では足りず、「これからは1人1人にAIが味方につく時代」とも言う。
「予測不能な未来に向き合うことこそ経営の本質。AIで企業経営が変わる。私はそう確信しています」
矢野 和男:日立製作所研究開発グループ所属。技師長としてAIなどの研究開発に従事。人工知能ラボラトリ長も兼務する。著書に『データの見えざる手ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則』など。工学博士。IEEEフェロー、東京工業大学大学院情報理工学院特定教授などを兼任。2007年EricePrize、2012年SocialInformatics国際学会最優秀論文など国際的な賞を多数受賞。
古川 雅子:ニュース週刊誌の編集に携わった後、フリーランスに。科学・テクノロジー・医療・介護・社会保障など幅広く取材。著書に『きょうだいリスク』(平山亮との共著)がある。