ワトソンと働き始めたかんぽ生命 —— AIは審査業務に超精通した「スゴイ先輩」

端攻めか、中央突破か ——。将棋の話ではない。企業に人工知能(AI)を導入するにあたっての戦略の話だ。

日本郵政グループの生命保険会社「かんぽ生命」(東京都千代田区)が選択したのは後者だった。

AIをどの分野に投入するのか。最初に白羽の矢を立てたのは、保険金の支払審査業務。この根幹の業務に、今年3月21日からIBMの人工知能による意思決定支援システム「ワトソン」を導入した。続いて、4月からはコールセンター業務でも活用を開始した。

保険会社の中心業務の一つである保険金支払審査にAIを本格的に活用するのは国内初だという。難しい判断を要することも多く、機械に「学習」させるには最もハードルが高そうな仕事だが、本丸からいきなり攻めたわけだ。メガバンクが軒並みコールセンター業務からAIを導入し始めているのとは対照的だ。

かんぽ生命のロゴと松阪氏

システム開発に携わった経営企画部イノベーション推進室企画役の松阪高宏氏。AIの判断結果をブラックボックスにしないために、システムの開発には実際の査定者にも入ってもらい、機械学習とともに「人による検証」を繰り返してきたという。

難易度の高い審査は「人で」の盲点

かんぽ生命とAIとの出会いは2014年に遡る。石井雅実社長が、業務効率の向上などを目指した新しい基幹システム(2017年1月から稼働)関連の出張でアメリカを訪れた際、米IBMのCEOからワトソンを紹介されたのだ。今ほどはAIが取り沙汰されていなかったが、コンピューターが学習すればするほど賢くなっていくというこれまでにない仕組みを知った石井社長が、支払審査業務の高度化に使えるのではないかと発想したという。

同社が日本IBMとAI開発に着手したのは、翌2015年のことだ。

システム開発に携わった、経営企画部イノベーション推進室企画役の松阪高宏氏は言う。

「当時、弊社は保険金の支払いに関して大きな課題を抱えていた。難易度の高い保険金の支払いは人が審査していたため、保険金の支払い漏れが発生する可能性があった。保険会社として漏れがない支払い体制にするのがシステムを導入する狙いでした」

「スゴイ先輩」にどんどん質問できる

保険金の請求は年間約250万件にも上る。大量のデータを扱うため、機械の「学習」には1年半の時間をかけた。どこに重みづけをすれば正確な判断ができるのかを細かく調整していき、「90%程度の精度」を実現したという。現時点では、過去の診断書と保険金の支払い結果など、約500万件の事例をAIが学習している。

大倉さん

審査業務のベテラン大倉明子さん。AIは新人社員の疑問にいつでも答えてくれる「スゴイ先輩」だと言う。

入社10年目、審査業務ベテランの大倉明子氏(32)に仕事ぶりをみせてもらった。ワトソンの検索欄に調べたい案件にまつわるキーワードを打つと、推定結果の参考になるような過去の案件が、「似ている度合い順」に一覧になって表示された。

「イメージとしては、スゴイ先輩が職場に入った、みたいな感じです。こんなに膨大な案件をお勉強していることが、基本的には人間の場合はないので(笑)。確認する内容にしても、入院のこと、障害のこと、事故関係……と多岐にわたり、全部を網羅して回答できるようになるのは、やはり人間には限界がありますから」(大倉氏)

例えば職場では、彼女のような先輩たちが電話対応などで手一杯というタイミングに、経験の浅い査定担当者が質問を待たされるというような場合もある。けれども、相手がAIなら「いつでもウエルカム」。

「私の手が空いていない時でも、一旦、最初の段階で新人社員の疑問に答えてくれるのが『スゴイ先輩』なので、その部分は心強い。新人の立場で考えても、人間の先輩だと『今は忙しそう』『さっきも質問したばかりだし……』などと気兼ねがあるでしょうけれど、AIならどんどん質問できるでしょうから、学ぶスピードも効率も上がるはずです」

ベテランへの道を6〜7年分短縮

かんぽ生命には、全国5拠点の査定部門に約1900人の人材がいる。そのうち、年間10万件ほどある難しい案件を担当できるのは、5年以上の経験がある人に限られる。実質的には「10年近い実務経験が必要」(松阪氏)であり、それが担える査定者は200人ほどというハードルの高さ。そこに、業務上のボトルネックがあったと、松阪氏は言う。

「高度な判断ができる人たちにしかできない業務があって、他の人は手伝えないので、少しでもその仕事が滞ると残業か休日出勤をしていただくしかなかった。AIを使ってもう少しハードルを下げ、他の人が高度な業務を手伝えるようになると、全体としての働き方のバランスはよくなると考えています」

入院や手術の際に支払われる保険金の額は、ケガや病気の部位と程度、手術の方法などにより大きく変わってくる。さらに保険金の請求には、請求書とともに病院の診断書が提出されるが、査定者がその診断書だけでは判断できない事例が多数ある。そもそも、病院などに事実を確認すべきか否かといった判断には知見が要る。約款や医学、法律などの専門知識も必要だ。 だがこれからは、そうした難度の高い査定であっても、提出された診断書と似た過去の事例をAIが見つけ出し、「何%程度似ている」と担当者に結果を示すため、経験の少ない査定者でも処理できるようになるというのだ。

松阪氏は、「これまでは、10年育成にかかっていたレベルの仕事内容でも、AIのサポートを受けながら3〜4年ほどの実務経験があれば担当できる体制に持っていきたい」と考えている。

あくまでも「人の判断の支援」

ただし、AIはあくまでも「人の判断の支援」という位置づけなのだと松阪氏は強調した。

「我々はお客様への責任がある。AI任せというわけにはいかない。AIがすべて判断するという使い方をするつもりは、今のところない」

PC画面

実際のシステム画面。保険金などの請求に関係する情報(診断書や請求書、契約内容)をワトソンが理解し、あらかじめ学習しておいた過去の案件の情報から請求に関する査定結果を推定する。

第1段階では、AIに保険金の請求書の情報を読み込ませ、自然言語処理により病名などを抽出している。その後、過去の学習結果から調査が必要そうな案件については、「要調査」と表示を出させる。そして第2段階では、過去の類似した事例を相関度の高い順番に並べてランキング表示させる機能も追加。査定者は、そのランキングからAIが推定した査定結果の「判断理由」を把握できる。

実際の査定業務でAIを使う大倉氏は、ベテランでも迷うような案件で、「レファレンス的に使える」ところが強みなのだと話した。

今後の新人教育の場では、「ワトソンはこう言っているけれど、同時に、過去にはこんな事例もあると示しているね。視点を変えれば、こういう判断もできるよね」などと、ワトソンが出してきた「エビデンス」を材料にしながら議論し合うことも考えているという。

人手不足自体を見据えて

興味深いことに、かんぽ生命が「働き方改革」に乗り出したのも2015年4月。AI開発と時を同じくして働き方改革にも取り組むことになった。

人事部ダイバーシティ推進室室長の伊藤陽介氏によれば、多くの企業のように、最初は長時間労働の改善から着手したという。けれども、締め切りがある仕事では時間内に終えねばならない任務は残り、時短の方策だけでは行き詰まった。効率のいい仕事環境をつくったり、社員のスキルアップを促したり。その意味でも、AIの導入が役立つというのだ。

「保険金の支払い部門は、これまでハイパフォーマーの人材に頼る仕事のやり方だった。今回のようにシステムのサポートを借りることによって、ベテラン社員がストレスなく本来の業務に取り組めたり、もっと違うところに能力や労働力を活かせたりするようになれば、本当の意味で働き方改革につながっていくのだろうと思っています」(伊藤氏)

行きかう人々

AIの活用は、慢性的な人手不足時代の希望となり得るのか。

国立社会保障・人口問題研究所が今年4月に出した推計では、50年後の日本の生産年齢人口は、2015年より4割以上も減るという。将来的には慢性的な人手不足時代が訪れる。松阪氏は、先を見据えてこう語った。

「これから、人口動態的に生産年齢人口が大幅に減る。超ベテランと呼ばれる人たちを1つの企業で200人以上も抱えておくのは、なかなか難しい。未来を考えた時に、今のまま手をこまねいているわけにもいかない。我々も手を打っていかないと。その解決策の1つがAIだと考えています」

(撮影:今村拓馬)


古川 雅子:上智大学文学部卒業。ニュース週刊誌の編集に携わった後、フリーランスに。科学・テクノロジー・医療・介護・社会保障など幅広く取材。著書に『きょうだいリスク』(平山亮との共著)がある。

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