ようやく時代が追いついてきたのかもしれない。
昨年9月、プロパスケットボールのBリーグが産声をあげた。小学5年生のときにバスケットボールを始めた岡田優介(32)は、京都ハンナリーズの選手としてこの舞台に立った。待ち望んだ瞬間だった。
日本代表時代に公認会計士にも合格
バスケットボールは一般的に5人対5人で対戦するスポーツだが、もう一つ、3×3(スリー・バイ・スリー)とよばれる、3人対3人で戦う競技がある。岡田は京都ハンナリーズの選手でありながら、渋谷に本拠地を置く3×3のDIMEというチームのオーナー兼選手でもある。
今年6月9日、2020年の東京オリンピックで3×3のバスケットボールが正式種目に決まった。岡田が取り組んできたことは、この1年で一気に注目されるステージへ引き上げられた。
だが、プロバスケットボール選手という職業は岡田を形成する核でありながら、彼の一面でしかない。岡田は日本のスポーツ界でも類を見ない、マルチタスクの人間である。
当時26歳だった岡田の名前が知られたのは、バスケットボールの日本代表でありながら、公認会計士の試験に合格したからだ。合格率が10%台という難関試験に現役アスリートが合格するのは、異例のことだった。
バスケに割く時間を少しでも確保するために
小学生の時から、岡田は自分で考え、実践する人だった。
授業で宿題が出されると、直後の休み時間にできる限り終わらせるようにしていたという。習ったばかりのものにすぐに取りかかれば、労する時間は短くなるし、家に帰ってから頭を切り換えるのにも時間がかかってしまうからだ。ビジネス書で語られるような、時間の節約術だ。
「たぶん、本当にバスケが好きで、バスケに割く時間を少しでも長く確保したかったからだったと思います。その一心でたどり着いたのが、そういうスタイルでした」
「当時は東京に住んでいたんですけど、都内ではバスケットボールリングが使える時間が限られていたんですよね。放課後の校庭の開放が4時から5時までだったとします。授業が終わってから5時まで校庭でバスケをして、そこから自転車をこいで、隣町にある公園へ行き、日が暮れるまで練習する。次の日は太陽が出て明るくなるタイミングで公園へ行き、授業に遅刻しないギリギリの時間までバスケをやっていたりましたから(笑)」
社会的な信頼が高い資格
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勉強と両立できるという基準で、大学は青山学院大学と早稲田大学の2校に絞った。進学時に青学が1部リーグ、早稲田は2部リーグだったので、青学を選んだ。青学では3年生の前期までに卒業に必要な単位をほぼ取り終えた。大学バスケットボール界では新人王も獲得した。
単位も取り終えたからこそ、何か新しいことを学びたいな。
そう考えた岡田は、大学の生協に置かれているさまざまな資格のパンフレットを取り寄せていった。国際政経学部の学生として、惹かれたのが公認会計士だった。
「まず、難関資格だということに惹かれて。そして、社会的な信頼性が高かったことも決め手になりました」
バスケをなめているのか
難関試験に挑む過程で、心ない声が聞こえてきたり、冷ややかな視線を向けられたこともある。
バスケットボールをなめているのか。公認会計士を甘く見ているのか。
選手引退後の保険が欲しいのだろうという意見もあった。
「そう言われるのは予想できていたので、関係なかったです。『自分にしかできないことにチャレンジしているのだから、普通の物差しで測っても意味がない』と思っていたんですよね」
会計士の勉強を始めたとはいえ、バスケットボールを最優先に考える方針は変わらなかった。残された時間をいかに、効率的に勉強に割くか。そのため、会計士の予備校に通うのではなく、予備校の通信講座で学ぶことにした。
当時の平日の平均的なスケジュールはこうだ。通信コースの学生も参加できる予備校の早朝のトレーニングコースで、7時から8時半まで勉強をする。岡田は新宿校を利用することが多く、そこから青山キャンパスか、相模原キャンパスの図書館で勉強する。18時ころから22時ころまでは相模原キャンパスでバスケットボールの練習だ。そのあと帰宅してまた勉強。
各駅停車に乗り勉強時間を確保
電車の移動時間をフル活用した。相模原キャンパスに近い町田駅から新宿駅までは、急行だと約40分だが、それでは集中力が高まったところで、勉強を中断しないといけない。岡田はあえて各駅停車を利用した。かなりの確率で座れるし、1時間15分というまとまった時間が確保できた。
大学卒業後はトヨタ自動車アルバルク(現在のアルバルク東京)に加入した。当時は社業にはつかずにバスケットボールに専念できるプロ契約(厳密には嘱託業務委託契約)と、社業をしつつバスケットボールにも取り組む正社員契約の2種類が存在していた。岡田が選んだのはプロ契約。バスケットボール以外の時間は勉強に費やしたかったからだ。
公認会計士の試験は短答式と論文式にわかれており、まず短答式試験に合格すると、そこから2年間は論文試験だけを受験できる。 岡田は、勉強をはじめて2年目、社会人1年目で試験を受けている。
1年目:短答式試験に不合格→2年目:短答式試験に1点差で不合格→3年目:短答式試験に1点差で合格→4年目:論文式試験に合格
突き詰めた経験やノウハウは応用できる
1年目はとても合格するとは思っていなかった。試験会場の雰囲気を知り、試験日に最高のパフォーマンスを出すためのプロセスを探るためだった。試験中に起こるようなハプニングまで想定した。
試験会場が床下浸水する。筆記用具が壊れる。会場の外に街宣車が通ったり、止まったりする。隣りの受験生の飲み物が自分のところにこぼれてくる……。
「今でも当時の自分はすごいところまでやっていたな、とは思いますねぇ。いろいろな状況、リスクを予測・想定しておくということです。バスケットボールの試合も、会計士試験も、気の持ちようが本当に大切なんですよ。トラブルを予測できているかどうかで、実際に遭遇した時の心理的な負担が違ってくるんです」
そうした考え方はバスケットボールでごく普通だ。実際の試合で起こりそうなシチュエーションに合わせた細かい練習をする。例えば、試合が残り2分のなかで、相手にリードされている状況、同点の状況、自分たちがリードしている状況、などを細かく想定して行なう。
「ただ、バスケが勉強につながったという感覚ではなくて。バスケにしても、会計士の試験にしても、突き詰めて考えていった結果。その経験やノウハウは、他にも応用が利くんですよ」
合格を知ったのは、広州で行なわれていたアジア大会に日本代表として参加していたときのことだった。もちろん、嬉しかった。バスケットボールをやっていて得られる喜びとも違った。ただ……。
「道が開けたなという感じの喜びでした。勉強を進めていくなかで、実際に会計士になったらやりたいことがどんどん出てきていて。だから、ようやくそこに向かう準備ができたという喜びだったんです」
当時はトヨタ自動車アルバルクとプロ契約だったものの、厳密な位置づけは社員だった。トヨタ自動車は社員の副業を認めていなかったのだが、日本代表に選ばれるような選手の真剣な想いを会社側も感じ取り、特別に副業を許されることになった。そして、今度は勉強にかたむけていた時間を会計士としての業務や、他の活動に向けられるようになった。
現在までに岡田はこれだけ多くの事業や活動をしてきている。
- プロバスケットボール(5人制)選手
- バスケットボール選手 3×3
- バスケットチームオーナー
- 公認会計士
- 経理業務(受託)
- スポーツバーの経営者
- バスケットボールスクールの運営
- 日本バスケットボール選手会を立ち上げ、初代会長(*すでに勇退)
- 講演業(不定期)
- 執筆業(不定期)
- 初学者向けの簿記会計塾(現在は一時休業中)
- アスリートサミットのボードメンバー
岡田自身が経営するバーで。一つの目標だけに向かう時代は終わったという。
誰だって生活の中でいろいろなことをやっている
同時に複数の仕事や事業に取り組むのは大変そうだが、岡田にとっては会計士の試験とバスケットボールを両立させたときのほうが大変だったかもしれない。
「どの事業も立ち上げるときは大変ですけど、一度、動き出してしまえば、そこまでは……」
こともなげにそう語る。時間や労力を分配することも過去の経験があるから、難なくこなせる。複数の作業に取り組む感覚を、岡田はこんな風に表現する。
「僕にとっては新聞を読んでいく作業みたいなもの。新聞にはスポーツ面もあれば、経済面や社会面もありますよね。それと同じです。それに誰だって、生活の中でいろいろなことをやっている。仕事だけではなく、本を読んでいる時間もあるだろうし、料理もする。でも、特別に意識することなく、頭を切り換えていたりしますよね。だから、自分のなかでも別の仕事をするにしても、特別に頭を切り換えるという感覚はないんです」
一つの目標に向かうという時代は終わった
これからの目標は何だろうか。
「一つの目標を立てて、そこへ向かっていくという時代は、もう終わったんじゃないかなと思っていて。これだけのスピードでいろいろなことが変わっている時代で、5年前に立てた目標は、5年後に古くなっているかもしれないし、その目標自体が世の中に存在していない可能性もありますよね。その時代に適応したもの、楽しいと思えることを、やっていくだけです。自分がやりたいと思ったときに、すぐに動ける人間でいること。そのために、毎日勉強して、知識をつけ、いろいろなことに興味を持って、常に新しいことにチャレンジしていく。あえて言うならば、それが目標ですね」
岡田はバスケットボールが上手くなりたくて、周囲にたしなめられるほど熱心に練習をしてきた。練習の時間を伸ばし、その質をあげるためにどうすればいいか考え、取り組んできた。
競技を始めた小学5年生のときにはそもそもプロのリーグすら存在していなかったわけで、当時からプロ選手になることを夢見ていたわけではない。むしろ全力を注いできた結果、バスケットボールのプロリーグが発足し、3×3が五輪競技に採用もされ、岡田自身のステータスや幸福度も上がったのだ。
だからこそ、岡田はこれからもバスケットボールを始めたときと同じような情熱を核にして、生きていくつもりだ。 (本文敬称略)
(写真:今村拓馬)