松本晃(69)と高岡浩三(57)。日本を代表する2人のプロ経営者だ。
ちょうどひと回り違い、身長はほぼ同じ。撮影のために並んで座った2人が笑い合う姿は兄弟のようである。
似ているのは見た目だけではない。考え方や仕事への向き合い方など、通じ合う高岡を、松本は「一卵性双生児」という。
カルビーの松本晃会長(左)とネスレ日本の高岡浩三社長。ビジネスに対する考え方が非常に似ているという。
松本は京都大学大学院卒業後、伊藤忠、ジョンソン・エンド・ジョンソン日本法人トップを経て、創業家から請われてカルビーへ。2011年3月、東証一部上場を果たし、株価を最高値で11倍に伸ばした。伝統的オーナー企業を成果主義へと改革し、ダイバーシティ推進や働き方改革への大胆な取り組みが注目されてきた。
高岡は神戸大学卒業後、ネスレ日本へ。「キットカット受験生応援キャンペーン」「ネスカフェアンバサダー」などの日本独自のビジネスモデルの開拓が、ネスレのスイス本社からも高い評価を受ける。2010年、生え抜きの日本人社員として初めてネスレ日本の最高経営責任者となる。
食品会社のトップ、関西出身、世界的ブランド企業の日本法人のトップ経験者であること。加えて、負けず嫌いであると同時に勧善懲悪の人情家。
共通点の多い2人が、結果を出す闘い方とミレニアル世代への伝言を、90分にわたって語り合った。前編のテーマは、「20代30代にどう働くか」。
どこの組織においても一等賞でないと面白くない
Business Insider Japan(以下BI): おふたりの20代30代は どんな感じだったのですか。
松本:我々の時代は東大法学部を卒業して官僚になるような一部のエリートと、その他大勢の金太郎あめに分かれていた。僕なんて金太郎あめの中の上ぐらいだったけど、しょせんは金太郎あめ。その集団からどうやったら這い上がれるかということには、それなりに興味がありました。
高岡:私自身は、 父親も祖父も42歳で亡くしています。父が亡くなった小学校5年生で喪主を務めた時から、「自分も42歳で死ぬかもしれない」という思いがあったので、おのずと42歳を人生の締め切りと考えるようになっていました。
就職したのはバブルに突入する少し前の1983年。大手の広告代理店にも内定が決まっていましたが、ネスレ日本への就職を決めたのは、外資系は年功序列ではないという人事評価への期待がありました。他人より短い人生で、早く結果を出さないといけないと思っていましたから。ところが、入社してみると当時のネスレは年功序列で終身雇用制の日本的な企業だったんです。
BI :20代で少しでも上を目指したというゴール設定はおふたりに共通です。
松本:会社に入ってすぐに、商売は自分に向いていると思いました。でも、社長にならんと面白くないなあと思いましたよね。どこの組織においても一等賞じゃないと面白くないなと。
高岡:トップを目指す気持ちはありました。でも、ネスレはグローバル企業ですので、海外を勤務を何カ所か経験したグローバル人材のみが日本をはじめ各国のトップになれる仕組みでした。
お金に対して貪欲でないと結果は出せない
BI:結果として、おふたりとも本当に社長になりました。その前哨戦として、20代にやったこれがよかったということを教えてください。
松本:商社でモノを売ることは、ハングリースポーツです。お金に対して貪欲でないと結果は出せない。僕は20代に「売る」ということについて徹底的にやりました。
例えば、四国の土建会社の社長さんにずっと張り付いて、出張には僕が車を運転して同行するし、徹底的に尽くす。いわゆる「男芸者」です。その結果、社長さんは、会社で買うモノはほとんど全て僕から買ってくれるようになりました。「人は買いたいモノを買うのではない。買いたい人から買う」んです。
高岡:私はネスレUSAで1年間仕事をしたことが大きいですね。28 歳からたった1年でしたが、当時、日本はバブルの絶頂期で「24時間、戦えますか」というコマーシャルが流行語になったくらい、モーレツな雰囲気でした。 一方、アメリカは景気がどん底と言われていましたが、行ってみると、人は広い家に暮らしいい車に乗っている 。働く人たちの生産性はみな高く、ワーク・ライフ・バランスが充実しているなど、生活の質も高かった。
アメリカから日本を眺めて、バブルが永遠に続くわけがないと思ったんです。バブル後の20年で、実はアメリカも日本もあまり変わっていません。アメリカは何度も危機を乗り越えて復活してきている。翻って日本を考えると、この差はものすごく大きいです。 そんな見方を身につけるのに、アメリカでの1年は何事にも代え難いと思いましたね。
BI:いま、組織と個人の関係や働き方が社会全体の問題として議論されています。モーレツに働いた世代のおふたりは、人生のある時期に時間を忘れて働く経験は必要と考えますか?
松本:基本的な考えは変わりません。ただ、働き方は変わりました。カルビーではいま、「働き方改革3.0」だと言って、働くって一体どういうことかということから議論しています。
私は電車で通勤していますが、電車の中でも仕事のことを考えています。日曜日は散歩がてら3時間ほど近所のコンビニやスーパーを回って商品の定点観測をしています。ウオーキングの間も頭をフル回転で仕事のことを考えています。では、その時間は働いている時間なのかと。 つまり、会社という場所にただ座っている時間なんて「働いている」時間ではない。オフィスになんか来る必要ないと、私は言ってるんです。
そもそも、製造業の現場では「人」が主役だった時代が今や、ロボットやIoTに変わろうとしています。当然、それ以外の人たちの働き方も変わるべきなんです。
働く目標を持つこと。自分の意志で働くということ。
高岡:私が若かった頃、ネスレはすでに日本では珍しい週休2日制を取り入れていました。ところが、私は最初の営業として配属された千葉で、取引先との関係を築くのに、担当するスーパーが土曜の朝7時からやっている朝市を手伝うために自主的に通ったんです。これは会社としてはルール違反でした。でも、私には自分の意志で行く動機づけがありましたし、目的を達成するのに有効でした。本社に異動してからも、英語で行うプレゼンのために、前日の夜に書いたスクリプトを丸暗記して、寝ると忘れてしまうのでそのまま徹夜で出社したことが何度もあります。
要は、働く時間が問題ではない。自分の達成したい目標を持つことが大事なんです。それがないと、ただ働かされているだけになってしまう。同じ働くにしても自分の意志でやることと、やらされていることでは中身もストレスも違う。それが、単に労働時間や残業の話になっているのは、意味がないんじゃないかと思います。
BI: 働かされるのではなく、仕事を巡る状況を能動的に動かしていくためにはどうしたらいいでしょう?
高岡:私は42歳までしか生きられない前提でしたので、入社して20年しか時間がないわけです。ですから、どんな上司の下でも評価はよくないといけないと思っていました。どんなに合わない上司でも、あるいは、若い自分から見てもどこか未熟だと思う上司でも、その人たちから最高の評価をもらわないといけない。自分が任されたパフォーマンスをきちんと評価されないのは一番困る。どんな上司についたとしてもその上司の期待には150%応えるようにしていました。
20代の頃、直属の上司に「あれ」「これ」しか言わない人がいたのですが、 その人から「あれ」と指示があるたびに、求められているものを出すことができたので、先輩からは「お前なんで分かるんだ」と妙に褒められました。
松本:僕は、それほど評価は意識しませんでしたね。結果を出せばおのずと評価されると思っていました。人間は好き嫌いがあるので、自分のことを評価しない人もいるかもしれない。それはそれで仕方がない。これは20代から思っていたことです。それでも結果を出せば最終的には勝つんじゃないの? と思っていました。
それよりも、組織にはよいところも悪いところもある。その都度、よいとこ取りで、悪いところはなるべく学ばないようにしたんです。例えば、伊藤忠に入社して一番最初に学んだことは「サラリーマンというのは、上司は必ずいる。しかも、それはひとりだ」ということ。隣の部署にも課長や部長がいて、上司が何人もいるように見えますが、結局、自分の上司は誰なのか。その人の意志はどこにあるのか。それを見失わないことです。
BI:松本さんは、伊藤忠に入社したときに45歳でキャリアをリセットすることを決めていたそうですね。
松本:人生は短いから15年単位で生きていったらうまくいくかもしれないと思ったのがきっかけです。30歳、45歳、60歳、75歳。これ以上生きていたらおまけだと。 だから、最初にゴールセッティングをして帰納的に人生を考えていきます。 人生は一度しかない。長くないですよ。そのゴールを達成するためには、今、何をしなければダメだというのがおのずと見えてきます。
だから今の若い人たちも早いうちに自分のゴールをセッティングした方がいいのではないでしょうか。 今の時代のゴールは我々の頃と違って多様性があっていい。しかし、ゴールは異なるけれども、やるべきことを着々とこつこつやるというのは、どの時代も同じでしょう。要は「着眼大局・着手小局」です。
(本文敬称略)(撮影:今村拓馬)
※後編では、「働く目的」「闘うコツ」について、ミレニアル世代への伝言を語り下ろします。
松本晃(まつもと・あきら)カルビー代表取締役会長兼CEO。1972年、京都大学大学院修了後、伊藤忠商事に入社。センチュリーメディカルに取締役営業本部長として出向。1993年にジョンソン・エンド・ジョンソン メディカル(現・ジョンソン・エンド・ジョンソン)に入社。1999年より同社社長。2009年より現職。NPO「日本から外科医がいなくなることを憂い行動する会」理事長なども務める。
高岡浩三(たかおか・こうぞう)ネスレ日本代表取締役社長兼CEO。1983年、神戸大学卒業後、ネスレ日本に入社。ネスレコンフェクショナリーマーケティング本部長として「キットカット受験生応援キャンペーン」を成功させる。2005年、同社社長に就任。2010年、ネスレ日本代表取締役副社長飲料事業本部長、同年11月より現職。「ネスカフェ アンバサダー」などの新しいビジネスモデルの構築を通じて高利益率を実現する。